渡辺巡りの旅に行ってきた(埼玉県鴻巣市・山梨県富士五湖)

 普段ミョージシャンとして活動しているものの、北海道の奥に住んでいるので実際に本州でなにか調べたことはない。今回、本州に行く機会に恵まれて、なにか苗字の見識を深められるところに行きたいと思っていた。そういえば富士急ハイランドがある富士吉田市周辺の富士五湖地方は渡辺さんが非常に多いことで知られている。ぼくは本州の苗字集中地帯というのを見たことがなかったので、これを体験しに行こうと思った。そして渡辺にゆかりのある場所へ行ってみよう!!

 ということで、まずは新宿駅に降り立った。

 新宿駅のもともとの住所は「豊多摩郡淀橋町大字角筈字渡辺土手際」といった。江戸時代、この地には元々旗本の渡辺氏の屋敷があり、渡辺町と呼ばれていたようだ。

 もう一つ、渡辺に縁があるのが、新宿駅の西側にある旧地名・角筈である。

 町名としては廃止され、施設などに名を残す角筈であるが、古くに角筈を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が角や矢筈に見えたことから、地名が起こったと言われている。

 角筈の北側の十二社熊野神社紀州出身の鈴木九郎が勧請したというが、一節に渡辺与兵衛が勧請したものとも言う。

 もっとも、鈴木は熊野信仰に大いに関係する苗字のため、渡辺与兵衛が実際熊野神社を開いたかは怪しい。

 次に来たのは埼玉県鴻巣市

 鴻巣市箕田地区は、渡辺姓の祖とされる渡辺綱(わたなべ・の・つな 源綱)の出身地である。渡辺綱は、嵯峨天皇の血を引く嵯峨源氏の一族であり、武蔵国足立郡箕田村を領地とした箕田源次こと源宛(みなもと・の・あつる)の子である。源宛が綱が生まれる前に21歳の若さで死去し、綱は母方の祖父である源満仲(みなもと・の・みつなか 多田満仲)の婿である源敦(みなもと・の・あつし)に引き取られ、満仲の地元である摂津国(現・大阪府北部・兵庫県南東部)に移住することになる。そして摂津国西成郡渡辺(現・大阪市中央区付近)に住み、渡辺を苗字とした。(なので、本当は大阪にも行かなければならないが、それはまたの機会に)

 まずは渡辺綱の祖父である源仕(みなもと・の・つこう)が勧請したという氷川八幡神社に赴く。


 看板には渡辺氏の家紋、渡辺星がつけられている兜と、膝をついて謝る鬼が描かれている。これは実際、渡辺綱に鬼退治の逸話があることに由来するのだろう。渡辺綱は満仲の嫡子である源頼光の家来・頼光四天王の一人であった。頼光が四天王を率いて大江山に巣食う酒吞童子を討伐した逸話や、綱が今日の一条戻橋で銘刀髭切を用い鬼を切った逸話は語るまでもなくよく知られている。そのため、鬼は綱の子孫である渡辺さんを恐れているので、渡辺さんは節分に豆まきをする必要がないという話も語られているようだ。

箕田碑


 次に来たのが箕田観音堂源仕源経基(みなもと・の・つねもと)から馬頭観音像を譲られ、この地に綱が安置したのが始まりという。

   

 箕田の氷川八幡神社の裏手には綱が父親の宛の菩提を弔うために建立したと伝わる宝持寺がある。氷川八幡神社と共同で渡辺綱公千年祭という催しをしているようだ。

 境内の横には墓地があり、全国渡辺会による嵯峨源氏の顕彰碑があった。

 次に訪れたのは山梨県富士吉田市を中心とする富士五湖地方である。

河口湖

 

 富士五湖地方周辺は非常に渡辺さんが多いことで知られており、富士吉田市南都留郡富士河口湖町忍野村鳴沢村西桂町では最多姓である。人口の2割近くが渡辺さんという市町村も珍しくない。この集中っぷりで、山梨県内まで範囲を広げても、山梨県で一番多い苗字となっている。

 甲斐国の渡辺氏は、『山梨県姓氏家系大辞典』によれば長慶天皇の供として従った渡辺氏が甲斐に土着したものと伝わる。戦国時代の甲斐武田氏の家臣にも渡辺姓のものは多い。少なくとも南北朝時代から戦国時代には、この地方で渡辺姓が多かったと言えるだろう。

 まずは富士吉田市の福地八幡宮を訪れた。福地八幡宮は、誉田別命とともに渡辺綱を祀り、渡辺大明神とも呼ばれている。富士五湖地方の渡辺さんの氏神とも言える。

寄附者にも渡辺さんが多い

 富士吉田市富士河口湖町を巡ると、渡辺という名前を持つ企業も多く、渡辺さんの多さを示すため、撮ってきた看板を挙げる。

富士吉田市

富士河口湖町

 

富士河口湖町

 次に訪れた鳴沢村は人口の約3割が渡辺さんであり、日本で一番渡辺さんの割合が高い自治体となっている。

 村議会の議員10名のうち、5名が渡辺さんだ。

 鳴沢村でも渡辺名の企業は多い。

 最後に本栖湖のほとりにある渡辺氏屋敷跡を訪れた。

 渡辺氏屋敷の住人は渡辺囚獄佑(わたなべ・ひとやのすけ)。武田氏の家臣であり、富士山の御師としても活動していたという。もと八代郡精進村の住人であったが、武田氏に本栖の甲斐・駿河の警備の任務を命じられ、本栖に居住していた。

個人宅?のすぐ側を通る

 渡辺氏屋敷跡の裏手の森の中に囚獄佑の墓とされる石塔があった。

森の中に金網が(掛け金はあったが鍵はなかった)

 渡辺巡りのために、鴻巣から本栖湖までやってきて、一つの苗字の事跡を追い求めるというのは中々楽しかった。実際に生活する渡辺さんを実際に見ることで苗字についての見識も深まった気がする。本当はもう少しゆっくり回れればよかったのだがそれは今後の苗字旅の課題にしよう……。